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笠懸神事

笠懸神事 10月18日13時より 上賀茂神社

笠懸神事

笠懸の起こり

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初代神武天皇が東征された際、筑紫箱崎の浦で騎射の稽古をされたとき、お被りになった笠に皮をはり、これを的にして射られたのが「笠懸」の起こりとされている。

日本書紀(720年成立)には雄略天皇(456年即位)の時代、騎馬戦に最も威力を発揮するものとして「笠懸」が記されている他、 宇多天皇の御代・寛平元年(889)に右大臣源能有公によって制定された弓馬礼法により、「笠懸(かさがけ)」「流鏑馬(やぶさめ)」「犬追物(いぬおうもの)」が騎射の三物と称された。

「笠懸」は武技のほか、神事としても平安期から鎌倉期に最盛期を迎え、吾妻鏡には源頼朝公、頼家公がそれぞれ由比の浦、三浦の浜で御家人たちと「笠懸」に興じている。当時の騎馬武者は、皆頑丈な大鎧に身を包み、簡単に致命傷を与えることは困難であったことから、鎧武者の急所である内兜(顔面)を狙い、敵将が顔を上げたり振り返ったところを一矢にて敵を仕留める技術が重要とされた。

「笠懸」はこの技を修練するためのものであり、弓馬練達の勇士でなければ到達できない究極の射法とされ、平将門公、木曽義仲公、新田義貞公がいずれも顔面に矢を受け陣没している。

上賀茂神社(賀茂別雷神社) 笠懸のご由来

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公武を問わず上賀茂神社に対する尊崇の念は深く、古代から賀茂の県主(あがたぬし)一族を筆頭に「相撲(すまい)」「競馬(くらべうま)」、「騎射(うまゆみ)」が神前に奉じられてきた。

ご由緒ある歴史の舞台の一つに後鳥羽上皇の「笠 懸」が語り継がれている。 後鳥羽上皇は藤原定家、家隆らに「新古今和歌集」編纂の勅命を出すほどの王朝文化の庇護者でありながら、「賀茂旧記」に記されるように建保二年(1214)の「笠懸」を大々的に催すなど、公武の近臣を集めてたびたび行幸され、弓馬術の鍛錬に意を注がれた。しかし、王政復権を志した「承久の変」に敗れ、上皇は隠岐に、息子の順徳天皇は佐渡に流され、ともに還幸は適わぬまま彼の地でお隠れになった。

また岡山県美作市楢原には「笠懸の森」といわれる自然林があり、後鳥羽上皇から百年後の元弘二年(1332)「正中の変」で、同じく出雲街道を隠岐に流される後醍醐天皇一行が休息の際、警護の武士たちが失意の天皇をお慰めするために「笠懸」を行ったという逸話が伝わっている。

上賀茂神社の笠懸は、関係者の尽力により、平成十七年に後鳥羽上皇以来、実に八百年ぶりに復活、神前に奉納された。

武田流弓馬故実の伝承

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宇多天皇の命で右大臣源能有が制定した弓馬礼法は代々源氏が相伝し、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の後裔である武田氏と小笠原氏に継承された。武田氏は鎌倉期には甲斐(山梨)、安芸(広島)を領有し、室町期には若狭(福井)を加えた三国の守護大名を勤めた。武田氏は甲斐の信玄公が知られるが、嫡流の本地は安芸・若狭にあった。足利将軍の御供衆として西陣近くに居を構え、応仁の乱では信賢・国信の兄弟が細川勝元ら東軍に与した。また大乱後は将軍義政・義尚の側近として、国信・元信父子が京都の治安維持に尽力した。

武田家は、弓馬故実を伝える武家の名門でありながら、京都五山の建仁寺、南禅寺の高僧を多数輩出するなど、五山文学と禅宗・臨済宗の発展に寄与した。しかし足利幕府の終焉とともに武田氏の勢力も衰退し、最後の嫡流武田吸松斎信直は姻戚関係にあった細川藤孝(幽斎)に弓馬故実の一切を伝授した。幽斎は京都で没するが、思慮あってか、武家の精神文化の精華とも言うべき弓馬故実は徳川幕府に伝えられなかった。そのことが今日、武田流の儀式に中世社会のあらゆる所作、思想習慣の片鱗が見て取れる所以でもある。

 

武田家の弓

馬故実は、江戸期を通じて肥後・細川藩家臣竹原家が継承し、明治に入り藩侯立会いのもと、その印可は井上家に、昭和に至って金子家に受 け継がれた。現司家で弓馬軍礼故実司家は三十五代目となる。

わが国の「弓馬の道」を実践、伝承する社団法人大日本弓馬会が、昭和七年(1932)に発足以来、全国の神社、地域振興の行事をはじめ、国賓歓待の公式行事、数カ国におよぶ国際交流の大命を受け、演武実践の機会を頂いている。

笠懸の馬場・的・式次第

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馬場は、古伝書によると長さ120間(約218m)で、馬場の 中には疏(さぐり)(砂浜に馬犬を走らせた跡に由来)を設け、その両端に雄埒(おらち)(武田流では奉行と貴人席側)、反対には雌埒(めらち)を立てる。材質は的を架ける笠木とともに、柴、黒文字、萩などを結んで用いた。的は二尺一寸(約35cm)の薄板を竹串に挟み、馬場元から三十杖(約60m)、雄埒から五杖~十杖(約10~20m)の位置に立て、矢道の両側には竹矢来(たけやらい)を組んだ。

「笠懸」は文字通り笠を懸けて的としたが、時には貴人の着物や扇、沓、鳥の羽根、木の葉などをも的とした。室町期には的は直径二尺(約60cm)の丸い薄板を牛革で被った中に綿を入れて柔らかくし、表に星を描いた的を連銭の縄で吊り下げた。これは草鹿(くさじし)や大的、丸物 と同様の形式である。ちなみに「遠笠懸(とおかさがけ)」とは古くからの習いを表し、「小笠懸(こかさがけ)」とはこれより歴史の下るものであり、的の距離を表すものではない。

陣列を組んだ一同は社殿に向かい、「鏑矢奉献(かぶらやほうけん)」「願文奏上(がんもんそうじょう)」、「鳴弦(めいげん)の儀」を神前で行う。奉行は騎乗のまま弓に鏑矢を番え、天地の邪を祓う「天長地久(てんちょうちきゅう)の儀」(天下泰平・五穀豊穣・万民息災を祈願する儀式)を行う。 馬場では奉行が矢代(やしろ・やだい)を振り、射手の順番を定める。

奉行による「破之太鼓(はのたいこ)」を合図 に、笠懸がいよいよ開始される。まず射手は矢を射ずに一気に馬場を駆け抜ける素馳(すばせ)という故事を行う。その後、騎射が 始まり、順々に的を射る「遠笠懸」を行う。今度は馬場を逆に用いて馬を走らせ、左右埒際に配した、地面低くに立てられた四寸(約12cm)の小さな板的を射抜く「小笠懸」を行う。

この「小笠懸」は流鏑馬より実践的で、左下の的を射る弓手筋違(ゆんですがい)、馬の頭を越えて弓を構え、右下の的を射る 馬手筋違(めてすがい)などの射法がある。 特に馬手筋違での的中は、 練達の射手のみが成しえる高度な技である。
「止之太鼓(とめのたいこ)」の後、奉行は的中、技量ともに優秀な射手を勝者として認める。一同「勝鬨」を上げ、神酒を頂戴する。

笠懸の射手装束・諸役

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笠懸神事に騎乗する射手の服装は、笠懸具足と称され、烏帽子、直垂または素襖(すおう)に、左腕に射籠手、腰に行縢(むかばき)、太刀、脇差または鎧通し、手袋、足袋、沓をはき、重 籐(しげとう)の弓を持ち、腰には蟇目(ひきめ)の矢を手挟む。
また神事では血を忌むことから射手の矢には鏃を付けない。
奉行はすべての采配を、馬場中央の櫓から行う。馬場を固める扇方、旗持、的奉行または的目付、幣振、矢取は諸役と呼ばれ、儀式の円滑な流れを支える。


資料提供 (社)大日本弓馬会

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